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2006-07-18 Tue 15:37
香港の「中国労工通訊」による出稼ぎ女性労働者への聞き取りの抄訳。15歳で河南省の農村から出稼ぎに出てきた張さん(21歳)。わずか四年間の出稼ぎ期間に9社の工場で働き、最後の職場で労災事故に遭う。出稼ぎの女性労働者の典型的なケースの一例。現在は広東省の出稼ぎ労働者支援組織で活動しているという。(China Now!編集部)
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2006年3月9日 家族、故郷 15歳のとき、1998年12月に出稼ぎにでた。過程の経済的負担軽減のため。姉妹が多く、自分は一人っ子政策の法外出産で生まれたので、親は罰金を払った。兄が結婚するので費用も必要になったので、早くから親の経済的負担を減らさないといけないと思っていた。学校での成績も悪くなかったので、高校に行っていれば大学にもあがれたかもしれない。4年間の出稼ぎで9社の工場で働いた。 最初の仕事 職業紹介人に連れられて広州に来た。紹介料は250元、当時、身分証明書がなかったのでさらに50元をとられた。身分証明書をつくる費用といって、さらにあとで50元とられた。結局、身分証明書はもらえなかった。 最初の工場は、外資系工場で、夏は造花、冬はクリスマスツリーをつくる。一週間休みなしで、一年に三日間だけ休暇がある。毎日10時まで残業。最初に配属されたのは金属部門で、労働環境は最悪。毎日、布を直接シンナーに浸して、ツリーの幹の部分のスチールを磨いていた。磨いたものはそのまま加熱炉へいれるので、現場は煙だらけ。遠くの人は煙で見えないし、作業場に一歩入ると涙が止まらないし、呼吸困難になる。工場から週一回支給されるのは、軍手一組とマスク一つだけ。マスクはすぐに汚れて使えなくなり、軍手もすぐにぼろぼろになる。 ここでは一ヶ月弱働いて500元強の収入(一元は約15円)。工場の寮に寝泊まり。休みは取れない。仕事がないときだけ長期休暇をとって実家に帰ることができる。産休、育休、結婚休暇などはなく、そうなると仕事を辞めるしかない。労働組合もない。この工場は大きな工場で、他の場所に分工場もあるが、そこでも組合があるとは聞いたことがない。 その後、工場でデータ処理係りを募集していたので、それに応募して、成績が一番良かったのでデータ統計担当になった。労働環境はすこし良くなった。この工場で8−9ヶ月をすごした。 データ統計担当の時給は1.8元。わたしの後から入ってきた統計担当の時給が1.7元で、わたしを妬んで、上司と結託してわたしをいじめた。耐えられなくなって、実家に戻った。実家では裁縫を学んで、縫製関連の職場で働く準備をした。 二回目の仕事 広東省澄海市にでてきた。縫製工場がなくて、小さな玩具工場に就職。現地の人間が設立した会社。この町の工場はどれも同じように小さく、家内制工場みたい。労働者は数十人から、少ないところでは数人だけ。工場は、作業場、倉庫、宿舎が一緒になっている。一階は作業場、二階は宿舎、三階に経営者が住んでいる。住居環境は最悪。男女それぞれ一部屋に十数人の労働者が寝とまりしている。シャワーは二つだけで、水は近くの河から、洗濯も河で。仕事では手でネジを締めるのだが、すぐに指がはれてしまい、血豆になる。数日働いてやめた。 三回目の仕事 同郷の紹介で、わたし、いとこの妹、いとこの兄の三人で、澄海市にある20人ほどの小物製造工場で働く。平屋なのだが、板で上下に仕切って、下で作業、上で寝泊まりする。わたしのように背が高いと腰を悪くするし、夏は猛烈に暑い。クーラーも扇風機もないので寝付けない。男女は板一枚で仕切られているだけ。シャワーは一つだけ。毎日夜11時半に仕事が終わってからシャワーを浴びるためにみんな並ぶ。仕事は出来高制だが、どういう風に賃金計算をしているのかは分からない。作った数ともらう金が合わない。食事は自分で購入する。一日14時間労働。週7日勤務。一ヶ月働いて、賃金が400元とか500元。食費を除くとほとんど残らない。 ある日、いとこの妹が、イヤホンを聞きながら仕事をしていた。妹は仕事も余り速くない。経営者はクビだと言った。わたしたち三人は仕事を辞めることにしたが、経営者はわたしと兄を引き止めようとして、いろいろと説得したが、辞めることに決めた。しかし経営者はわたしたちの身分証明書を取り上げており、賃金も未払いだったので、仕方なく労働局へ訴えに行った。労働局の人間は、ここではそういう風になっている、一ヶ月働いて辞める人には賃金は支払われない、と言う。結局賃金ももらえず、食費を使っただけだった。 四回目の仕事 次に同じ澄海市の玩具工場に入った。第二、第三の工場よりも大きく、条件も比較的よかった。50人強の職場で、8時間労働。午前4時間、午後4時間。もし注文があれば、夜間さらに4時間の残業があった。休みはなく、注文がない場合や停電の場合は休みになる。一度、小さな火事があったが、わたしたちは逃げ足が速かったので何事もなくすんだ。 そこでの仕事はラベル張り。仕事の速い遅いで賃金がかわる。1,000元以上もらう人もいたり400-500元程度だったり。宿舎の条件は前よりもよかった。寮は別の建物で、自炊もできた。経営者はわりと理解があり、必要なら休んで実家に戻ることもできたし、故郷から同郷者が出てきたときには寮に泊まらせることもできた。ここで三ヶ月働いたが、かつてミシンを習っていたこともあり、縫製の仕事もしたかったし、もう少し賃金が高い仕事を見つけたかったので、仕事をもとめて後から来た同郷者と東カンへ仕事を探しに行った。 五回目の仕事 東カンに到着後数日は、電車や長距離バスの駅で寝泊まりした。その後、東カンで働くいとこの姉の寮を見つけてこっそり寝泊まりした。仕事を探したが見つからず、おなじく東カンで働く同郷者のところに移ったが、彼は男性だったので、わたしとしては居心地が良くなかった。 結局、縫製工場での仕事は見付からず、VCDを作っている電子部品工場に就職した。一緒に来た二人の女性は、レストランの店員の仕事についた。わたしの工場は200人を超える労働者がいて、多くは女性だ。とても清潔な工場で、みんな作業服を着ており、工場内も奇麗だった。 ここで包装の仕事をした。出来高制で、時給2元。残業は時給2.5元で、週末には残業はなかった。しかし全く作業がない場合、月に200-300元程度しか収入がなく、そこから食費90元を引かれると一ヶ月に100-200元くらいしかのこらない。 ここでは国民年金に加入することができた。保険料は賃金から10%引き落とされる。退職する際にそれを受け取ることができる。ここでは大きな労災事故もなく、男女ともに同一労働同一賃金だ。結局、収入が少ないので、最後の一ヶ月の賃金が未払いのまま辞めてしまった。この工場では、年度と中では辞めることができず、辞める場合は最後の一ヶ月の賃金は支払われないという。 六回目の仕事 次に入ったのは陶器工場だった。ここでは基本給480元で、最初の三ヶ月は残業代時給1元。三ヶ月後、評価によって残業代はABCに分かれる。Aは一日8元、Bは7.5元、Cは7元。基準は分からない。わたしはBだった。 皆勤賞は100元。昼夜の食事は工場が無料で出す。朝食は自分でとるが、毎日2元の朝食手当てがつく。一週間休みなしで、日曜は残業がない。残業は5時間で夜6時半から11時半まで。朝は8時出勤だが7時半には集合して体操をするが、5分程度ですぐに仕事が始まる。 工場には400-500人の労働者がいて、60%が女性。わたしは造花をつくる部門でこまかい技術が必要だった。だから社長も私たちの職場にはすこし気を遣い、賃金もすこし高かった。 別の塗装部門ではそうではなく、作業環境も厳しく管理された。たとえば、作業時間のトイレは、出勤してから30分は禁止。トイレに行くのも現場退出カードを持って出なければならず、それは一ラインに一枚しかなく、順番でトイレに行くが、カードが回ってきたときに行かなければ、次はまたカードが回ってくるまで待たなければならない。トイレも5分と決められている。生理中でも関係ない。作業中の姿勢も決められている。 わたしたちの部門にはそのような厳しい管理はなかった。私たちの部門の作業は半月程度の研修が必要なので管理は余り厳しくない。不公平な待遇にも耐えるしかない。労働局へ訴える者もいなかった。一度、賃金の遅配でストライキがあった。経営者にいわせると、金融危機のせいだという。 七回目の仕事 陶器工場を辞めて実家に帰った。その後、北京市蜜雲県にある九山縫製工場で働いた。社長は安徽省の人で、100人以上の労働者を雇用していた。9時から始業して、夜は残業してもしなくてもいい。休みはなし。出来高制で、380元の基本給は保障されている。残業しても割り増しはない。工場の建物は古く、シャワーも一つ。誰も掃除もしないので、汚い。寮は平屋で、一室7-8人。わたしが就職したとき、すでに3ヶ月分の賃金が未払いになっていた。 ある日、職制といさかいが起きた。午後、実家に電話をしようと思ったが、工場は村の外れにあったので、公衆電話までかなりの距離があった。職制は、仕事が終わってから電話をかけに行け、といい、わたしと言い争いになった。 ちょうどその時、他の労働者は経営者に未払い賃金を要求していた。労働者達は賃金が支払われないなら辞めるといいだした。工場長は、かたくなに今は払えない、と主張した。副工場長によると、工場長は数日前に誘拐されて多額の身の代金を払ったのでお金がない、もし食費が必要なら少しなら融通できる、といって一人につき30-50元を渡した。この副工場長によると、いま急いで完成させなければならない商品があるので、それを完成させたら賃金を支払うという。わたしたちはみんなでその仕事を終わらせたが、やはり賃金は支払われない。わたしたちは何度も社長と話し合いをした。社長は、金融危機だが、必ず賃金は払う、と一筆書いた。しかし彼が、そんなに簡単に給料をもらえると思うな、と蔭で言っているのを聞いていた。 その後、工場長にも迫ったが、彼は辞めたいなら辞めろ、と言う。ずっと給料が払われていないので、わたしたちに現金がなく、北京市内までの交通費すらもないことを知っていた。結局、わたしたちは相談して、もし金が支払われなくても辞めることを決めた。ここの工場はいつもは門が閉められており、もし出ていって電話をしたり、買い物をするときには、社長が鍵を開けることになっていた。 ここからの脱出は夜にすることにした。鍵を盗み出して、一人いた門番を押しのけてみんなで逃げ出した。気分は最高だった。しかし、4ヶ月の賃金を放棄した仲間もいた。 みんな、わたしのことをラッキーだと言う。わたしに支払われなかったのは1っヶ月分だけだったからだ。その時は労働局に行くとか、思い付かなかった。みんなで金を出し合って北京市内まで行った。わたしは北京市内で働く親戚の兄さんを頼って、彼から金を借りて実家に帰った。 八回目の仕事 一週間ほど実家に滞在した後、深センに出稼ぎにいった。児童用品をつくる台湾資本の工場の仕事を見つけた。工場には600人ほどの労働者がいた。就職する際、書類作成費用などといわれ80元徴収された。 工場では電動足踏みミシンの仕事をした。残業は毎日あって、早くても11時過ぎ、遅いときには2時3時まであり、翌日も7時半の始業通りに出勤しなければならなかった。12時半から一時間半の休憩があるといっていたが、実際には食事を食べてすぐに現場に戻らなければならなかった。日曜日は残業が9時半には終わることが唯一の救いだった。疲れて倒れる労働者もいる。作業中に眠くなって指をミシンで傷付ける者も沢山いた。 毎朝朝礼が行われるのだが、あるとき一人の女性労働者が倒れた。どうしても意識が回復しなかったので、わたしと同じラインにいた彼女の夫が、背負って宿舎に連れてかえった。一日休んで、もう一日休みたいと言ったが、工場は許可しなかった。 賃金は出来高制で、残業しても割り増しはつかない。そのかわり賃金は高い。少ない者でも800元、多い者だと2,000元以上にもなった。しかし、職制の賃金が2,000元であったことから、その後労働者の最高賃金は1,800元とされた。 この工場は賃金も高いが、罰金も厳しかった。タイムカードで、遅刻一分につき一元。製品のできが悪いと罰金、管理者に口答えすると罰金、床を汚しても罰金。ある時、できが悪いのでやり直しを命じられ、罰金を取られた労働者がいた。彼女は不服だったので、口答えした。そしてまた罰金を取られた。その月、彼女は600元もの罰金を取られた。しかしそれでも1000元の手取りがあった。 ここの食事はなかなか良かった。昼食と夕食は、三菜一汁、ご飯もおいしかった。午後には果物、夜食も出た。3時まで残業になるとさらに一食ついた。朝食も豊富だが、朝はみんな眠くて食べなかった。 寮は20人部屋で、シャワーもトイレも足りていなかった。残業が終わってかえってくるとお湯が出なかったりした。雇用契約もなかった。一ヶ月一日休むことができる。年一回20日から1ヶ月の長期休暇をとることができた。だが実際にはほとんど休みをとることは許可されなかった。サボタージュは50-100元の罰金だ。建国記念日、メーデなども休みにはならない。中秋節には残業がないというのが唯一の救いだ。 この工場には労働組合はない。安全衛生に関する教育もない。わたしは二ヶ月でやめてしまった。とても疲れるからだ。何度か作業内容が変更され、ノルマも引き上げられた。時には3時まで残業しても終わらない。工場の規定では三ヶ月以上経過しないと辞めることができないという。職制はわたしの退職を許可しなかった。台湾人の副社長に手紙を書いて辞職を要求したが、月末まで待ってもらいたいという。しかし待ってもやはり辞めさせてもらえないので、仕事をゆっくりすることにした。そうこうするうちに工場側も仕方なく、わたしの辞職を認めた。 わたしたちの班では子ども用のハンモックを作っていた。とてもよく売れて、注文が殺到していた。他の工場では作ることができなかった。ここの工場でもわたしたちの班だけが製造できた。だからこの班の賃金は一番良かったが、その反面、辞めることも難しかった。 2003年のSARSの時に一人の労働者が高熱を出して病院から診断書をもらったが、工場は病休を認めず、彼の出勤も許可しなかった。結局、かれは自分から職場を辞めた。 九回目の仕事 仕事を辞めてすぐに深セン龍港区の新馬縫製工場にはいった。ここは有名なメーカーの製品をつくっていた。おそらく香港資本の工場だ。この工場の検査ラインで一年少し働いた。8時間労働で、月、水、金は2時間の残業がある。週末の残業は賃金が二倍になる。時給2.77元。月最低700元は保障されている。夜勤の勤務では、7元の割り増しがつき、三ヶ月後に出来高制にかわる。 医療保険、労災保険に加入しており、毎月60-70元を天引きされる。寮は一部屋8-10人でベランダもある。工場ではよく火災訓練がある。娯楽室では卓球や映画を見ることができる。 三ヶ月後、職種が変更になった。布に水をかける作業で、その作業をおこなうことで布の品質があがる。この仕事は夜勤業務で、出来高制。しかしそれまでの賃金1,700元が、職種変更で1000元になってしまった。夜勤業務は仕事量が少ないからだ。同じ作業内容であるにも関わらず、作業行程が違うということで賃金が代わってしまった。 その後、アイロン部門に異動になった。大量の注文をこなすために、国産の機械アイロンを導入したが、故障が多発した。このアイロンについている防護板はネジが緩んでいてよく落ちたので、防護板なしで使う場合は、注意して使うように指示を受けた。その後、職制から、次に防護板が落ちたらそのまま付けずに使用するように指示を受けた。 2004年3月35日夜、機械アイロンの防護板が何度か落ちたので、それを付けずに使用した。午前3時、事故が起きた。わたしの手が挟まれた。すぐに機械を止めたが、手は挟まれたままだった。しばらくして設備工がやってきて機械の圧力を抜いて、手を抜くことができたが、皮がただれていた。工場の車で病院に送ってもらおうとしたが、運転手が見つからず、結局自分一人でタクシーで病院にいった。 21日入院して、皮膚の移植手術をおこなった。入院中、何度か工場に対して医療費を支払うように交渉してやっと医療費が支払われた。工場の中ではわたしが安全に注意していなかったからだと言う噂を立てる者もいた。しかし管理者が防護板を外してもいいといわなければ、そうしていなかった。工場の管理者は見舞いにも来なかった。 その後、何度か工場に要求してやっと一人介護者をつけた。工場はたった100元だけを食費として渡した。食費が足りなくなるかもしれないので、親戚の姉に毎食弁当を作ってもらった。まだ完全に治療が終わっていないにもかかわらず、工場は病院に対する医療費の支払いを止めてしまった。病院は点滴をとめた。もし点滴を継続していればもっとよく回復したかもしれないのに。 退院してから10日目、工場の管理者から、はやく復職するようにといわれた。職制に呼ばれて、ひとりで大変ではないか、などと聞かれた。当初、親切心からそう聞いているのかと思い、一人で生活はできている、と答えた。すると一人で身の回りの世話ができるならなぜ仕事ができないのか、と詰め寄られた。非常に腹立たしかった。 医者はもう一度、移植手術を行うことを薦めた。まえに入院しているときに、深センの出稼ぎ労働者サービスセンターが病院で労災聞き取り調査を行っていた。退院後、ここにアドバイスを受けに行った。 その後、二回目の手術をおこなった。手術は成功したが、天気によっては手が痛むこともある。おそらく最初の治療がよくできなかったことが関係している。いまにいたるも、工場はわたしの賃金と労災補償を清算してくれていない。 現在 いま出稼ぎ労働者サービスセンターで働いています。女性労働者は、法律知識、権利意識が必要です。 労働局はわたしたちを守ってくれません。かれらはできるだけ仕事が少ない方がいいと思っていますし、経営者と関係がよいからです。また現在の法律にも改善の余地は沢山あります。
(以上)
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